チャンスをチャンスと捉え、掴めるか否かの差

僕はこれまで「これは大きなチャンスだ!」と思い、それをつかむべく行動した経験がいくつかある。振り返るとその判断はとても正しく、今の状況に大きく影響している用に思える。

まず最初のチャンスが大学受験のときであった。無名高校出身の僕は大学受験を成り上がりのキーポイントとして捉え、それ相応の努力をした。大学受験は身分がどうであれ、試験の点数が合否をほとんど全て決めるため、日本社会においてかなりフェアな競争だと思う。そしてその考えは受験生の頃からあった。

高校の周りの友達は僕と同じような価値観を持ちつつも、このタイミングがチャンスであると意識していないように感じられ、違和感があった。実に惜しいという気持ちだ。

最近このような気持ちになることがよくある。大学生にもなると同じようなコミュニティーにいても人によって価値観がかなり異なる。したがって、お互いを理解しあうためにその価値観を話し合う機会が多いのだが、その人の価値観を考慮すると、「あなた、今このタイミングはあなたにとってかなり大きなチャンスじゃないの?」と思うときが多々ある。そう思わせる人はほとんどの場合チャンスを逃している。そしてそのチャンスを見す見す逃しているのを見ると僕は歯痒くて仕方がない。

逆に、「あ、この人は勝負どころを解っているな。」と感じさせる人もたまにいる。本気さが垣間見ることができると、その人をよく理解しなくともわかる。歯痒く感じる人と、勝負どころをわかっている人とでは、往々にして後者の方が魅力的な人が多い。そしてそんな人は一緒に居たくなる気にさせる。そんな人には一度チャンスを掴みきれなかったとしても、また新たなチャンスがめぐって来やすい。チャンスを与える人間は、チャンスと理解できる人に喜界を与えたいと思うからだ。

チャンスが見える人というのは、決して頭がいいとかそういうわけではなく、チャンスと平常をかぎ分ける嗅覚に優れているような印象だ。そしてその嗅覚を持つ人は同じような嗅覚を持つ人たちと集まりあう性質を持つため、そうでない人たちとの差は大きく開いてゆく。

ベンチャーに勤めていてその傾向を肌で感じることが多い。ベンチャーに残る人間はなんとしてでもチャンスを掴んで一攫千金を当てようとし、変化の波に振り切られないよう必死でしがみつく。ベンチャーを去る人間は能力が足りないと言い、自分から身を引いてしまう。どちらにも大きな能力差があるとは思えない。差があるのはチャンスをかぎ分ける嗅覚である。

ただ、僕もベンチャーを離れる予定であり、この文章を書いていて非常に大きなジレンマを感じるのだが。