LISMOのポテンシャル

2006-02-02 - MYKAGAMIで書いたようにLISMOがすごい。PCにau Music Portをインストールしてみたのだが、社員一同うなってしまった。

その理由はau Music Portといいながらも、スケジュール管理やフォトアルバム機能などの多くの機能を含んでいる点にある。このソフトウェアはDUOGATEの各種サービスと連動させられるようになっており、携帯とPCとインターネットの融合が間近に感じさせられた。

例えば、GPS機能を用いて撮った写真の場所から自動的にタギングやファイル整理を行ってくれたり、いままでCDからのインポートまたはインターネット経由でダウンロードしていた曲が、着うたフルでいつでもどこでも手に入れられるなど、ユビキタスアイディアの多くを実現させてくれるようなサービスがいくつもあるのだ。

このコンセプトは今非常に注目されている要素の多くを含んでいる(言わずものがなWeb2.0)。ユーザ参加型であるし、アプリケーションとネットの融合であるし・・・。しかし、私はWeb2.0的なサービスに見えるLISMOが、実は全く違う方針であることに気がついた。それは、囲い込み戦略である。

もっとも、Amazonだってgoogleだって自社のサービスの独占率を上げるためのサービスを提供しているわけだが、API利用の柔軟性や開放性が全くことなるのだ。例えばDUOGATEのDUOSNAP。これはFLASHで構築されていて、このサービスを利用して何かマッシュアップを行うことは非常に難しい。Google LocalのようにAPIを用いて自分でデザインすることは出来ないだろう。

auはこのサービスによってどのような利益があるかというと、当面は着うたフルのコンテンツ料と通信料で儲ける目論見であろう。後の様々なサービスはキャリア囲い込みのためである。

囲い込みと言うが、私はこのような戦略が良いとか悪いといっているわけではなく、非常に興味深いものとして考えている。というのも、PCやインターネットの世界は解放性や自由度を持つものが成功を収めてきた。MicrosoftGoogleに危機感を抱いている現在の状況を考えれば一目瞭然だが、こと携帯では全く逆の路線で成長しているのだ。携帯のインターネットやアプリケーションは各キャリアが管理し質を保ち、バリエーションを制限してきた。この戦略が小さく、ユーザビリティに乏しい端末にマッチし、成長を遂げてきたわけだが、では携帯とPCとインターネットが合わさったとき、囲い込みと開放性のどちらの要素がうまくいくのか。

もちろん、囲い込みの場合auのサービスに大きく依存してしまうのだが、そのポテンシャルをLISMOのコンセプトによって感じさせられてしまったからには予想は非常に難しい。

イタリアに行ってきた

卒業旅行でイタリア・ローマに一週間ほど行ってきた。僕にとってほとんどはじめての海外旅行だったので非常に勉強になったのだが、最も痛感したことは日本のすばらしさである。

格安代金でいったため、ハーレムのような治安の悪い地域のホテルで寝泊りしていたのだが、道には犬の糞やタバコのポイ捨て、ビンが割れたゴミ、そして鮮血が落ちているようなところだった。歌舞伎町でもこんな場所ねぇぞ!というような地域がローマ一帯に広がっているのである。それを思うと汚いと思っていた渋谷も捨てたもんじゃないなぁと感心してしまった。

また、スリも非常に多い。子供連れの女の人が時間を聞いているすきに子供が視覚からバックをあけて財布を抜き取るという手口がみえみえの方法で、それ以外はどんなやつがスリかは分からない。10人で旅行に行ったが、4人がスリに会うこととなった。満員電車やバスでは非常に緊張して乗る必要があり、席に座れると安心して寝てしまう日本とは全くちがう状況であった。

イタリアに行く前までは日本とほぼ同じぐらいの治安であるようなイメージを持っていたが、全くそのようなことはなく、貧富の差が大きい治安の悪い国であった。もう二度とこんな国いきたくない・・・。

だが、よーく考えてみると日本が特別治安が良い国なのではないかという結論に至った。社会保障では北欧の優れたシステムと比べ日本はだめといい、中国の経済成長率を見れば日本を卑下し、ロンドンのテロ対策と同様の対策を取り入れようと努力する。世界に比べればこんなに日本はダメな国なのかと、国内では思わされていたが、案外世界中のあらゆる1番と比べているのだからやっぱりすばらしい国に生まれたのだと気づかされた。また、あらゆる製品が日本製のものであったことも日本に誇りを持てた。車ではトヨタや日産、電荷製品ではSONY東芝、松下の製品が汚いイタリアの町できらりと光る光景は、旅行中の僕の心を癒してくれた。

そんな経験をさせてくれたイタリア旅行は非常に有意義であったと思う。
グラッチェ!イタリア!

auの本気が見える

携帯音楽サービスLISMO宇多田ヒカルの新曲を引っさげリスが踊りまわるCMが、連日連夜流れまくる様子にauの本気を感じた。

今日、宇多田ヒカルの新曲「Keep Tryin’」を着うたフルでダウンロードして視聴してみたところ、音質はまあまあだしWIN携帯でのダウンロード速度も不快では出はない速度ではあった。このサービスが今後もっと向上していったらiTunesiPodによってもたらされた第2世代携帯音楽プレイヤーの次世代を担うものになると思うが、成功するための条件がいくつかある。

まずは手に入れられる曲の多さである。邦楽最大規模の音楽ダウンロードサイトMoraと組むという手もあるか。iTunesYahoo!と組むことは絶対にないだろう。後者は今後競合キャリアになるわけだし。ここはKDDI資本力と、各レーベルのWebマーケティングの消化不良具合を考えるとクリアできそうな条件である。

次にハードウェアである。せっかく着メロではなく音楽を聞くわけだから、PCとの連携して現在所有する大量の音楽を携帯に移し、長時間にわたって起動していなければならない。そのためには音楽を聴きながらその他の操作ができる携帯のCPUの向上やデータ記憶容量の向上が必要不可欠だ。ソニー・エリクソンウォークマン携帯が今後どのように向上してゆくかが見極めの材料になると思うが、ソニーミュージックがらみのしがらみがそれを邪魔するのだけはやめてほしい。

これを考えるとハードルは非常に低いし、第2世代でいわれる成功要因となんら変わらない。もしかしたら、第2世代が定着する前にLISMOが普及することもあるかもしれない。それは日本の携帯事情に成功するいくつもの要因が存在するからである。

まず一つにデータ転送速度・容量が高いこと、次に若い世代ほど携帯サービスを多用していること、決算システムをキャリアが持っていて清算が非常に容易であること、が挙げられる。これらの条件が上手くそろっているため、LISMOをその上に乗っけるのは非常に容易いと思うのだ。

ケータイはポータブル音楽プレイヤーを駆逐し、デジカメをも駆逐するであろう。地図を駆逐し、時刻表をなくし、この世の便利なものをドンドン吸収してゆく。Web2.0でいうところのマッシュアップ要素はケータイビジネスのほうがもっと相性がいいのではないか。

センター試験・リスニングICプレイヤーの不具合

センター試験で今年度初めてリスニング科目が課された。そこで用いられたICプレイヤーに不具合が生じ461人が再試験を受けるという結果になったことで、責任問題になっているようだが、はたして461という数はどうなんだろうか。

約50万人が受験して461人の不具合率って、かなりの高精度を保っている商品に思える。その不具合率は0.001%。全部の機械を検査したからといって、試験当日までに壊れることもあるため、この製品に対する責任はないと思う。むしろ、試験開始前にテストリスニングとかをして受験者全員で確認する作業を入れ、不具合があれば交換するとかの制度を設ける必要があったのではないか。

それでも461人しか再試験をおこなう必要がある人を出さなかったということは、大学センター試験初めてのリスニングは大成功だったのではないか。

Qoogleがおもしろい

Qooqleが非常に面白い。GoogleAPIを使っているところや、他のデータベースを使っているところ、動的にWebアプリが動くことなどまさにWeb2.0的である。Qoogleは自動的に検索ワードを表示してくれる他、検索結果も写真や大きなキーワードで表示してくれるため、検索キーワードが何かをわかるためには見やすい画面になっていると思う。

実はこれを見る以前から自分自身このような機能を考えていて、作ったら結構面白いだろうなと思ったのだが、Qoogleを見たら「おお、すげー!」といった直後、「先を越された」といった悲しみが残った。

検索ターゲットを予測して表示してくれる機能はとてもユーザビリティーに優れていて、スペルを全て入れなくてもよいことの他、スペルを間違ったときの修正がすぐ反映されること、正確なキーワードが分からなくとも目的にたどり着けるなど、メリットは大きい。これからは、検索サイトのみならず、様々なWebサービスで提供されるであろう。逆に、このような動作をしない検索バーを搭載するソフトはユーザビリティーの劣るものとしてみなされる時代が来るかもしれない。

自分が考えていた物を、誰かに先を越され実現されてしまったとき、落胆してもいいと思う。なぜ早く実行に移さなかったか、これからは思いついたら即実行しよう、と。ただ、このことはいい知らせでもある。この膨大な情報の中で、自分がふと考えたことが他の人によって実現され、さらに自分までその情報が届くというのは、紛れもなくアイディアが有用で人々に引用されているからに他ならない。つまり、そんなときは自分のアイディアに自身を持っても良いのではないかと思う。そして、次からは早く実行に移そう。

チャンスをチャンスと捉え、掴めるか否かの差

僕はこれまで「これは大きなチャンスだ!」と思い、それをつかむべく行動した経験がいくつかある。振り返るとその判断はとても正しく、今の状況に大きく影響している用に思える。

まず最初のチャンスが大学受験のときであった。無名高校出身の僕は大学受験を成り上がりのキーポイントとして捉え、それ相応の努力をした。大学受験は身分がどうであれ、試験の点数が合否をほとんど全て決めるため、日本社会においてかなりフェアな競争だと思う。そしてその考えは受験生の頃からあった。

高校の周りの友達は僕と同じような価値観を持ちつつも、このタイミングがチャンスであると意識していないように感じられ、違和感があった。実に惜しいという気持ちだ。

最近このような気持ちになることがよくある。大学生にもなると同じようなコミュニティーにいても人によって価値観がかなり異なる。したがって、お互いを理解しあうためにその価値観を話し合う機会が多いのだが、その人の価値観を考慮すると、「あなた、今このタイミングはあなたにとってかなり大きなチャンスじゃないの?」と思うときが多々ある。そう思わせる人はほとんどの場合チャンスを逃している。そしてそのチャンスを見す見す逃しているのを見ると僕は歯痒くて仕方がない。

逆に、「あ、この人は勝負どころを解っているな。」と感じさせる人もたまにいる。本気さが垣間見ることができると、その人をよく理解しなくともわかる。歯痒く感じる人と、勝負どころをわかっている人とでは、往々にして後者の方が魅力的な人が多い。そしてそんな人は一緒に居たくなる気にさせる。そんな人には一度チャンスを掴みきれなかったとしても、また新たなチャンスがめぐって来やすい。チャンスを与える人間は、チャンスと理解できる人に喜界を与えたいと思うからだ。

チャンスが見える人というのは、決して頭がいいとかそういうわけではなく、チャンスと平常をかぎ分ける嗅覚に優れているような印象だ。そしてその嗅覚を持つ人は同じような嗅覚を持つ人たちと集まりあう性質を持つため、そうでない人たちとの差は大きく開いてゆく。

ベンチャーに勤めていてその傾向を肌で感じることが多い。ベンチャーに残る人間はなんとしてでもチャンスを掴んで一攫千金を当てようとし、変化の波に振り切られないよう必死でしがみつく。ベンチャーを去る人間は能力が足りないと言い、自分から身を引いてしまう。どちらにも大きな能力差があるとは思えない。差があるのはチャンスをかぎ分ける嗅覚である。

ただ、僕もベンチャーを離れる予定であり、この文章を書いていて非常に大きなジレンマを感じるのだが。